空、青いね。ミーシャはそう言ったのだった。/ こうやって空を見ているとさ、何か、ちょっとこう‥‥いつもと違う気分にならない?/ ミーシャは言い、「紅い琥珀って、〈無限〉でできているんじゃないかな」 と続けたのだった。/ 始原はある、とステンカは応じた。「樹木から滲み出るやに。それが、始まりだ。そして琥珀という形になって完成しているから、終わりもある。無限じゃない」 そう答えたのだったが。/ いま、ひとりで草の上に仰き、無限‥‥とステンカは思う。そうして、空無、と思う。/ 無為。嫌だ。行動だ、とステンカは思う。何をする。何もしないで俺は食っている。食う。飲む。生きるのに最低限必要なそれらを、俺は無償で与えられている。先代伯爵が父親だからだ。俺を産み捨てた女が誰だか、知っているのは先代だけだ。いや、先代にもわからないのかもしれない。何人もの女に欲望を撒き散らしたから、その中の誰と、名指せないのかもしれない。相手は定住者でないのかもしれない。‥‥のかもしれない。のかもしれない。しれない。知らない。わからない。
皆川 博子『ジンタルス RED AMBER』
□ ジンタルス RED AMBER(河出書房新社 2026)皆川 博子ミハイル・イリイチ・ロマネンコ(ミーシャ)の処女小説『秘密法廷』を自称文芸評論家ルキーチ ・ソコロフスキーが酷評した。ミーシャの友人アレクセイ・ダニロヴィチ・メンシコフ(リョーシャ)が異議を唱える。異教徒を弾圧する刀剣騎士修道会士(騎士団)に父母と妹を殺されたリーヴ人の族長の息子ジンタルス(俺)は12歳の時に修道院に預けられて修練士となるが、修道士に誓願せず、重傷を負って死んだ次兄の代わりに騎士となるマクシミリアンの従者になった。叙任式の翌日、若い騎士2人による一騎打ちの試合に出たのは戦いが不得手なマクシミリアンと入れ変わったジンタルスだった。リューベックの商人ローラントは下僕トマスから買い取った紅い琥珀(ジンタルス)の指輪を 「騎士マクシミリアン」 と名乗るジンタルスに譲り渡す。祖母と父母を相次いで亡くした農奴ミーシャ(俺)は教会学校の生徒兼下僕として教会に住み込む。イリヤ輔祭に目をかけられて文学に親しみ絵画に勤しみ、15歳の時に新領主セルゲイ・フョードルヴィチ・ブロヒン伯爵の部屋付き召使いとなった。
伯爵家の 「亡霊」(プリーズラク)ステンカと農奴画家タラス・ペトロヴィチ・メーリニクに画才を認められたミーシャは詩人ヴァシリー・アンドレヴィチ・ジュコフシキーと画家カール・パヴロヴィチ・ブリュロフの口添えで、帝室美術アカデミーの学生となるためにペテルブルグ行きの許可をブロヒン伯爵に願い出る。主人の出した条件はチェス・ゲームに勝つことだった。ブロヒンの機嫌を損ねないように配慮して、ミーシャはステンカやメーリニクと同じくワザと負けていた。弱いミーシャはセリョージャ(当主セルゲイ)にチェスを指南した居候パーヴェル・ボリソヴィチ・リヴォフにチェスを教わる。修道院を出てから6年、集団戦も一騎打ちの試合もほぼ常勝の騎士マクシミリアン・フォン・リンデンと小さい竪琴を奏でつつ唄うミンネジンガー〈琥珀〉(吟遊詩人ベルネシュテン)の名は共に広まりつつあった。「ミーシャが勝った」 と、セルゲイがパーヴェルに告げて握手する。ミーシャはステンカと別れてペテルブルグへ旅立ち、マクシミリアンと別れて遍歴を続けたジンタルスは十字軍(キリスト教徒軍団)に参加する。そして4人の青年は過酷な運命に巻き込まれて行く。
13世紀のバルト海を舞台にした3部作 「風配図 II」 の 「始まりはロシアのウクライナ侵攻だった」。ミーシャのモデルは関連本を読んで知ったウクライナの国民詩人タラス・シェフチェンコの生涯に着想を得たという。《異教徒にカトリックへの改宗を求める十字軍なのに、騎士団はリヴォニアを殲滅して自分の領土にする。ひどい話で、宗教のために戦っているのに領土欲の方が強くなっちゃう。どっちの話も書きたくなって、農奴のミーシャが作中作としてジンタルスを書く構成にした》と、作者がインタヴューで語っているように、19世紀のミーシャが13世紀のジンタルスの物語 『秘密法廷』(改題・改稿・遺稿『青い琥珀』)を書く二重小説になっている。
『牡猫ムルの人生観』のような入れ子構造になったのは19世紀 「ポーランドとロシア情勢を、14世紀リトアニアとドイツ情勢に重ねて書いた物語」、詩人アダム・ミツキェーヴィチの長編叙事詩
『コンラッド・ヴァレンロット』(1828)に準拠する。幼少期に拉致されて騎士となったリトアニア人の主人公コンラッドがドイツ騎士団の懐へ入って壊滅させる 「1人トロイの木馬」 みたいな 「ヴァレンロット主義」 と称される復讐譚である。
◆ 辺境薔薇館 増補版(河出書房新社 2026)皆川 博子『辺境薔薇館』(2018)のロングインタヴュー 「皆川博子をつくったもの 皆川博子の紡ぐもの」 の中で、
『風配図 WIND ROSE』(2023)が 「おそらく私の最後の物語紡ぎになるでし ょう」 と語っていたが、「皆川博子の八年間」 に
『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』(2021)、『風配図 WIND ROSE』
『ジンタルス RED AMBER』(2026)を書き終え、16世紀イタリアの画家カラヴァッジョをモデルにした長編『贋作師マルコ』を書き進めているというから驚きだ。「卒呪」 を超えても全く衰えることのない明晰な頭脳と創作の意欲。偏愛するアート作品6撰 「辺境美術館」、ショート・ショート 「しらない おうち」、自ら描いたオイルパステル画4点とエッセイ 「館長の小部屋」、『このミステリーがすごい!』(私の隠し玉 1999-2026)、小説家・評論家・イラストレーター・編集者など64人のエッセイ、28人のアンケート 「私の愛する皆川作品 3」、「皆川博子を読み解くキーワード20」(東雅夫)。巻末に作品ガイド・著作リスト・年譜(日下三蔵)を併録した 「皆川博子読本」 の増補決定版。
■ 昨日の肉は今日の豆(河出書房新社 2025)皆川 博子その刊行が遅延していた最新短篇集。「PART 1」 は 「オール讀物」 「小説宝石」 など、いわゆる中間小説誌に発表された12篇。「牧神の午後あるいは陥穽と振り子」(現代小説 2018)はマラルメの詩とポーの小説をタイトルにして、横光利一の 「日輪」 を作中に引用している。「PART 2」 は詩、俳句、歌詞など、書き下ろしアンソロジーやムック、ネット媒体に発表された多様な15篇。表題作 「昨日の肉は今日の豆」(柏書房 2019)は老人の肉体が豆化する奇病(感染症)が蔓延する近未来を描いたパンデミック(コロナ禍)以前の作品。書き下ろし短篇 「ソーニャ 序曲」 は最新長編
『ジンタルス RED AMBER』(2026)のスピンオフで、舞台に立った農奴女優ソーニャが幕切れで、読者に直接語りかけるメタ・フィクションにな っている。日下三蔵(編者解説)は《皆川博子と同時代に生まれ、皆川博子の最新短篇集を読むことが出来る──。読者にとって、これ以上幸せなことなどないのだから》と結ぶ。
◆ 文月の使者(KADOKAWA 2025)皆川 博子短時間で読める作品を大きな活字で厳選した角川文庫 「100分間で楽しむ名作小説」 シリーズの1冊。
「100分de名著」(Eテレ)と混同しがちだが、100分(全4回)の放送枠で講師が作品を紹介・解説するTV番組( 「NHKテキスト」 「100分de名著ブックス」 として出版されている)とは別物である。同番組で皆川博子の作品が取り上げられたことはない。中州の病院に入院している友人・弓村を見舞いに来た書生・時夫が煙草屋の老人(舅)と中年女(年増の嫁)と若い女(珠江)の仁侠沙汰に巻き込まれる 「文月の使者」。舞踏家(新興流派の家元)の母と娘・千鶴、網元の娘ミツと漁師の子・勝男の現在と過去が交錯する 「玉虫抄」。父方の伯父の家(蛇屋)へ里子に出されたチャーちゃん(わたし)が書き溜めた〈お話〉の紙束を庭の焚火に焼べて燃やす 「ゆめこ縮緬」。大正から昭和初期の中州を巡る幻想小説集
『ゆめこ縮緬』(角川文庫 2019)から厳選。ちなみに 「
私(sknys)の愛する皆川短篇 3」 は
「アルカディアの夏」(1973)、
「ジャムの真昼」(2000)、
「猫舌男爵」(2004)。短篇集は
『少女外道』(文藝春秋 2010)です。
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- 「昨日の肉は今日の豆」 は〈青いモンスター〉からの再録(一部加筆・改稿)です^^;
- 「皆川博子の八年間」 「どん底から どう立つ」(朝日新聞 2026・7・1)から引用しました
- 『ジンタルス』の書評(千街晶之)が掲載されました(Real Sound 2026・6・21)
- ゴルジェイ・クジミーチ・オフチニコフは良い奴でした。「割り込み付記 1」 を参照
- 『辺境薔薇館』は264頁、『増補版』は322頁なので、58頁(12%)増量されました
- 『贋作師マルコ』の次に 「バルト3部作」 が控えています。《死神さん、見逃してくれていて、ありがとう。願わくば、来年も超寛大に》(皆川 博子 「私の隠し球 2026」)
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ジンタルス RED AMBER
- 著者:皆川 博子
- 出版社:河出書房新社
- 発売日: 2026/05/27
- メディア:単行本
- 内容:19世紀ロシア。伯爵に仕えながら絵画を学ぶ農奴のミーシャ。館で 「亡霊(プリーズラク)」 と呼ばれている青年ステンカとの出会いから、ペテルブルクで画才と文才を磨く道が開けるが──13世紀バルト。北方十字軍に故郷リヴォニアを侵略され、家族を失った少年ジンタルス。貴族の息子マクシミリアンの従者として遍歴の旅に出るが、復讐の念は彼を修羅の道へと導く。圧政と戦乱──二人の青年が辿...

皆川博子の辺境薔薇館 Fragments of Hiroko Minagawa【増補版】
- 著者:皆川 博子
- 出版社:河出書房新社
- 発売日: 2026/06/11
- メディア:単行本
- 目次:辺境美術館 / しらない おうち / 館長の小部屋 / 短篇精華(風 / 砂嵐 / お七 / 廃兵院の青い薔薇 / ひき潮 / 美しき五月に / 水引草)/ ロングインタヴュー(皆川博子をつくったもの 皆川博子の紡ぐもの / 皆川博子の八年間)/ 随筆精華(時代の歌 / 楽屋の鏡 / 無人島へ持っていく本『江戸語事典』/ 絵と私 / 暗号の旅 /『酩酊船』/ 幻想作家についての覚え書き)/ Fragments1 / 女王国の巨大迷宮、幻...

昨日の肉は今日の豆
- 著者:皆川 博子
- 出版社:河出書房新社
- 発売日:2025/12/09
- メディア:単行本
- 目次:薊と洋燈 / 藤棚の下で / 椿と / 罌粟の家 / 壜の中 / 川のほとり / 夏を病む / ララバイ / 君よ、帰り来ませ /『希望』/ あやとり / 牧神の午後あるいは陥穽と振り子 / 試作1 / 靑へ / 泰山木 / 忘れ螢 / 人形の家 / しらない おうち / 主さん 強おして / 昨日の肉は今日の豆 / ソーシャル・ディスタンス / 夕の光 / 風よ 吹くなら / 香妃 / 哀歌 / Lunar rainbow / Fragments / ソーニャ 序曲 / 編者解説 日下 ...
posted by sknys at 00:04| 東京 🌁|
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